Beginning of a Journey - Izmir
もうずいぶんと時間が経ってしまいましたが、昨年の春に2週間ほどトルコを訪れてきました。
私には、日本に長い付き合いのトルコ人の親友がいるのですが、彼女の家族や友人の住む街、イズミルを拠点に、いくつかの場所へ旅してきたのです。
…今、「親友」と書いて、あぁ〜そうか、そう呼べるようになったんだなぁ、と思いがけずハッとしてしまいました。
というのは、もう15年以上も前、彼女と初めて会った時には、私にとって彼女はいわゆる「外人さん」だったのです。
というのは、もう15年以上も前、彼女と初めて会った時には、私にとって彼女はいわゆる「外人さん」だったのです。
それから友人となって、よく行動を共にした時期もあれば距離ができた時期もあり、そうかと思えば彼女がボストンに引っ越してきて数ヶ月また時間を共にしたり…お互いに嫌な部分も見せつつ、反発したり受け入れたりしながら、今では国とか人種とかを超えて「親友」と呼べる存在になっているんだなぁと思うと、ちょっと感慨深いです。
若い頃に「外国人の友達が欲しい!」という夢を持っていたのですが、それは気づいてみると笑ってしまうほど自然と叶っていて、しかも彼女との関係は「外国人」なんて言葉はもう何の意味もなくなるほど、彼女は彼女だし、私は私。良いところも欠点もある、ただの人間同士の友情なのですよね。
若い頃に「外国人の友達が欲しい!」という夢を持っていたのですが、それは気づいてみると笑ってしまうほど自然と叶っていて、しかも彼女との関係は「外国人」なんて言葉はもう何の意味もなくなるほど、彼女は彼女だし、私は私。良いところも欠点もある、ただの人間同士の友情なのですよね。
そんな友人とは、ご両親や弟さんとも面識があったので、ずっと「トルコにも遊びにきて!」と言ってくれていたのになかなか行けず、昨年ようやく行くことができたわけなのですが、いざ行ってみると、その旅を通して目にするもの、口にするもの…全体的にとても私好みで、逆に「なんで今までトルコに来なかったんだろう?」と不思議に思ってしまうほどでした。
トルコの情勢が不安定な時期なので、ある程度の心構えは持って行ったのですが、幸いにも危険なことも何もなく、滞在を通してとても楽しい時間を過ごすことができました。
その拠点となった友人の故郷イズミルは、エーゲ海に面した比較的温暖な土地で、イスタンブール、アンカラに続くトルコ第三の都市です。
私は古代オリエント、ギリシャやローマ時代にとても興味があるのですが、ここイズミルもそれらの歴史上とても重要な役割を担ってきた土地でもあります。
聖書にも「スミルナ」という名で出てきますが、その起源は古く、現在のイズミルの原型が造られたのは、なんと紀元前30世紀だと言われています!
聖書にも「スミルナ」という名で出てきますが、その起源は古く、現在のイズミルの原型が造られたのは、なんと紀元前30世紀だと言われています!
紀元前30世紀というと、メソポタミアでは世界最古と言われるシュメール文明、エーゲ海ではミノア文明が栄え、古代エジプトでは第一王朝の時代。中国では黄河文明が栄え、インド方面ではインダス文明が統合されてきた頃で、日本はまだ縄文時代でした。
その後の歴史の変遷はめまぐるしく、主だったところだけでも、ヒッタイト、リディア人、アレキサンダー大王、ローマ帝国、ビザンチン帝国、オスマン帝国…と、歴史の荒波が何度も押し寄せ、まるで層のように幾度も塗り重ねられてきた土地です。
実際に訪れて少し滞在した感想はといえば、他に訪れたトルコの地域に比べるとだいぶ宗教・民族色が薄く、ギリシャがすぐそこという地理的条件もあってか、南ヨーロッパに近い雰囲気があるなぁと思いました。
20世紀初頭のギリシャとの戦争によって歴史的建造物がほとんど破壊されてしまったせいもあると思うのですが、イスラムの香りはそんなにせず、今まで訪れた中だと、イタリアのシチリア島やポルトガルの港町、そしてやはりギリシャの雰囲気と似ているなと感じました。
道ゆく人々も、いわゆる西洋人的な外見の人が多く、その服装も現代的で、さらにファッションセンスとしては、アメリカよりもやはりヨーロッパに近い感じがしました。
女性はエキゾチックな美人も多く(私の友人も美女です!)、全身現代風のファッションの人もいれば布で頭部や上半身を覆っている人もいて、友人も言っていましたが、宗教の信仰度合いはその家庭や個人によって様々だそうです。
男性はたいてい人懐っこくて話好きですが、女性は、たぶん親しい間柄でなければ —例えばお店の店員さんなどは、あまり愛想よく笑ったりしません。そういうところには、宗教的な背景をちょっと感じることもありました。
滞在していたアルサンジャック地区はレストランやショップが所狭しと立ち並び、
日が暮れてくると人々でごった返します。
ごちゃごちゃしているのですがどこかのんびりとしていて、心地の良い喧騒。
それに、トルコ人は親日家と聞いていましたが、本当だな〜〜〜!と思いました。
日本人だと言うと、一気に笑顔になって、ものすごーく親しげに話しをしてくるのです。
(観光地のお土産物屋さんなどでは、カモだと思われてるなーと言う感じもありましたが 笑)
けれども、「でもアメリカに住んでいる」と言うと、相手のテンションがちょっと下がるのです。やっぱりアメリカはあんまり好かれていないようですね。。
あるレストランで「日本人大好きだよ!」という店員さんと話をしていた時、「でも…」と彼が悲しそうに言いました。
「2012年頃までは日本人観光客がたくさんいたんだよ、でも、それ以降全然見なくなってしまった。。きっとISのことで、トルコも危ない国だと思われてしまったんだ。。。」
たぶん、日本はすごく情報が画一化されているので、テレビで「トルコは危険」という放送がなされたら、もう一気にみんな行かなくなってしまったのだろうなと想像がつきます。
「ずっと日本人が恋しかったんだ。だから、久しぶりに日本人に会えて嬉しいよ!」
そんな温かい言葉をどこに行っても聞くことができて、なんだか、これほどに日本人でよかったなー…と思えた旅先は今までになかったですね。
それからもうひとつ、とても印象的だったのが、町中にのんきに溢れる犬猫たちです。
これはもう、本当に衝撃的で、これこそが現代都市部における「共存」の模範と言えるのではないかと思ったほど。
港に、お店の軒先に、道路脇に…あらゆるところに野良犬、野良猫が飄々と歩いていたり、のーんびり昼寝をしているのです。
そして、車道であっても上手に車をかわしたり、道を渡ってゆきます。
人間の方も普通に気を払って、そして逆に気を使いすぎることもなく、とっても自然にことが過ぎていきます。
道ゆく人間に対しても犬猫に対しても、気の掛け方がほとんど変わらないように見えました。
犬猫の方も、人間に対して過剰に警戒したり懐きすぎることもなく、ほんとうにナチュラルに暮らしているのです。
アメリカでは、動物保護のシステムは日本よりも進んでいるとは思うのですが、どうしてもコントロールしようとする姿勢が強いような気がしていました。
道路で車に轢かれている動物の姿を見ることも毎日のようにあるので、複雑な気持ちです。
東南アジアやインドなどでも犬猫が同じようにのんびりと暮らしていたりする場所はありますが、狂犬病の面からもあまり安心して近づくことは出来なかったりするのに比べ、ここイズミルの犬猫は皆、市によって適切に管理されていて、予防接種などもされているそうです。
重要なのは、未だ民族的な生活をしている地域ではなく、こういった都市部でそれが機能していることなのです。
これは、今から急にそうしようと思っても無理なのは目に見えていますよね。
それはきっと、ずっと昔からの宗教的、文化的精神性に基づく考え方や行動あってこその人々と動物の在り方、関係性…というものではないのかなと思います。
これはもう、本当に衝撃的で、これこそが現代都市部における「共存」の模範と言えるのではないかと思ったほど。
港に、お店の軒先に、道路脇に…あらゆるところに野良犬、野良猫が飄々と歩いていたり、のーんびり昼寝をしているのです。
そして、車道であっても上手に車をかわしたり、道を渡ってゆきます。
人間の方も普通に気を払って、そして逆に気を使いすぎることもなく、とっても自然にことが過ぎていきます。
道ゆく人間に対しても犬猫に対しても、気の掛け方がほとんど変わらないように見えました。
犬猫の方も、人間に対して過剰に警戒したり懐きすぎることもなく、ほんとうにナチュラルに暮らしているのです。
拡大図。
アメリカでは、動物保護のシステムは日本よりも進んでいるとは思うのですが、どうしてもコントロールしようとする姿勢が強いような気がしていました。
道路で車に轢かれている動物の姿を見ることも毎日のようにあるので、複雑な気持ちです。
東南アジアやインドなどでも犬猫が同じようにのんびりと暮らしていたりする場所はありますが、狂犬病の面からもあまり安心して近づくことは出来なかったりするのに比べ、ここイズミルの犬猫は皆、市によって適切に管理されていて、予防接種などもされているそうです。
重要なのは、未だ民族的な生活をしている地域ではなく、こういった都市部でそれが機能していることなのです。
これは、今から急にそうしようと思っても無理なのは目に見えていますよね。
それはきっと、ずっと昔からの宗教的、文化的精神性に基づく考え方や行動あってこその人々と動物の在り方、関係性…というものではないのかなと思います。
マハトマ・ガンジーの言葉にこんな名言があります。
"The greatness of a nation and its moral progress can be judged by the way its animals are treated."
「国の偉大さと道徳的発展はその国の動物の扱い方でわかる」
人間が他の動物よりも知的、機能的に優れているのであれば、じゃあ、どんな風に他の動物たちと接してゆくか?というのはシンプルに問われるところですよね。
そして、一口に「動物を大切に」とは言っても、どういうことが大切にするということなのか、何が理想的な在り方なのかというのは、宗教や文化的背景によっても様々。
初めてのイスラム圏であるトルコを旅して、私の価値観にまたひとつ風穴が通ったような感じがしました。
仲良しのこの2匹は飼い猫のようす。
宿の隣の小さなカフェがまだオープンする前に、外のテーブルの上でくつろいでいました。
(鎖は猫ではなく、盗難防止にテーブルと椅子につけられたものですよー)
トルコでは行く先々で犬猫に遭遇したので、この旅行記にはこれからも
彼らの写真がたくさん登場することになると思います。。
それから、イズミルの街を歩いていて、さらに気になることがありました。
最初は、宿の近くの道の真ん中で、靴の空き箱をドラムのように叩いている男の子がいることに気づいて、「あれ?」と少し気に留めたくらいでした。
そこは毎日通る場所だったのですが、男の子は来る日も来る日もその場所で箱を叩き、小銭を稼いでいたのでした。
その他にも、レストランで食事をしていると、物乞いや、ティッシュペーパーや花を売りにくる子供達がいることに、だんだん気がついてきました。
まだ本当に年端もいかないような子供達です。
彼らは、シリアからの難民でした。
友人の弟さんによると、10年前にはなかった現象だそうです。
彼も長らく海外に出ていたので、ここ数年でトルコへ戻ってきてびっくりしたとのこと。
シリアはここ数年、大変なことになっていますよね。
ニューメキシコにいた時、通っていた学校のクラスメイトに日本語を流暢に話せるシリア人の方がいて、少し仲良くなったのですが、日本で東北の大震災があったちょうど同じ時にシリアの内乱が始まり、彼の友人も亡くなったそうです。
私は、日本の震災のことで頭がいっぱいで、動揺して仕方がなくて、その時はシリアのことまで考える余裕がありませんでした。
けれども、シリア人の彼にとっては自国で起こっていることの方がもちろん痛烈で現実味を帯びているし、その他のほぼ南米出身のクラスメイトにとっては、日本もシリアも遠い外国にすぎず、そこまで関心を寄せてくれないことに、なんだか悲しいというか虚しいというか、そんな気持ちを味わったことを覚えています。
かといって、私がそのシリアのことでどれだけ胸を痛められるかというと…やっぱり、どこか遠い異国での話に聞こえてしまう…そんな複雑な思いでした。
けれどもこの時、トルコで路上を彷徨うシリア人の難民を見て、その過去から一つの線が繋がったような気がしたのです。
あの時始まった内戦のせいで起こった難民の問題。それを今、目にしているんだと。
そしてあのクラスメイトのことを思うと、どこか遠い異国の人で自分には関係ない、という思いは薄らいでいて、彼らが安住の地を得られることを心から祈る気持ちが湧いてきたのでした。
こういったことはどう捉えていいのか難しい問題ではありますが、旅や出会った人々を通じて世界の様々な側面を知れるというのは、私はとてもありがたいことだなと思っています。
友人の弟さんによると、10年前にはなかった現象だそうです。
彼も長らく海外に出ていたので、ここ数年でトルコへ戻ってきてびっくりしたとのこと。
シリアはここ数年、大変なことになっていますよね。
ニューメキシコにいた時、通っていた学校のクラスメイトに日本語を流暢に話せるシリア人の方がいて、少し仲良くなったのですが、日本で東北の大震災があったちょうど同じ時にシリアの内乱が始まり、彼の友人も亡くなったそうです。
私は、日本の震災のことで頭がいっぱいで、動揺して仕方がなくて、その時はシリアのことまで考える余裕がありませんでした。
けれども、シリア人の彼にとっては自国で起こっていることの方がもちろん痛烈で現実味を帯びているし、その他のほぼ南米出身のクラスメイトにとっては、日本もシリアも遠い外国にすぎず、そこまで関心を寄せてくれないことに、なんだか悲しいというか虚しいというか、そんな気持ちを味わったことを覚えています。
かといって、私がそのシリアのことでどれだけ胸を痛められるかというと…やっぱり、どこか遠い異国での話に聞こえてしまう…そんな複雑な思いでした。
エーゲ海の夕暮れ。
私はエーゲ海や地中海が大好きなので、その近くにいられるだけで幸せです。
けれどもこの時、トルコで路上を彷徨うシリア人の難民を見て、その過去から一つの線が繋がったような気がしたのです。
あの時始まった内戦のせいで起こった難民の問題。それを今、目にしているんだと。
そしてあのクラスメイトのことを思うと、どこか遠い異国の人で自分には関係ない、という思いは薄らいでいて、彼らが安住の地を得られることを心から祈る気持ちが湧いてきたのでした。
こういったことはどう捉えていいのか難しい問題ではありますが、旅や出会った人々を通じて世界の様々な側面を知れるというのは、私はとてもありがたいことだなと思っています。
そんなこんなを感じながらも、イズミル滞在中は、友人のお母さんとお茶やショッピングをしたり、友人の家族や幼馴染みとごはんを食べたり、バザールへ足を伸ばしたり、古代ローマ時代の遺跡を見に行ったり…色々としながらも、暮らすような感じで比較的のんびりと過ごしていました。
滞在先のアルサンジャック地区は、小さなレストランやショップが立ち並ぶ便利で賑やかなところだったので、毎日その辺りをぶらぶらしては、お気に入りの老舗カフェでチャイとクッキーを注文して街ゆく人々を眺めながら休憩し、夜は数ある中からその日の気分でレストランを選んでディナーを取り、その後は海沿いで夕涼み…というなんとも気ままな毎日でした。
他の場所に足をのばした時には毎日色んなところへ行き忙しかった分、イズミルでの日々はほんとうにのんびりとリラックスしていて、なんだかトルコでのホームのように感じられました。
さて、次はずっとずっと行きたかった場所…西洋と東洋が交差する魅惑の都、イスタンブールのことを綴ります。
茜色の空を、家に帰ってゆく鳥たち。こんな風景はどこでも同じなのですね。