サスティナブルな命の運び方
今日はアメリカ独立記念日ですが、フロリダは生憎の雨模様。
ウィルス・パンデミックのこともあり、今年はあちこちで花火が中止されているようです。
今年に入ってもうすでに半年が過ぎましたが、今年は本当に、何という年なんでしょうね。
きっと皆さんそれぞれに、いつもとは違う半年間を過ごされていたのではないかと思います。
ウィルス・パンデミックに人種差別問題、そしてそれらにまつわる様々に錯綜する情報によって、私たちの考え方や生活習慣が変化せざるを得ないような、そんな大きな転換点が来ていることを、誰もが無視できない世の中になってきました。
大きくカタストロフィーのような形で影響を受ける人もいれば、なんとかホメオスタシスを保とうとしながらも、実際はじわじわと何かが変化していっているような感覚を潜在下で感じている人もきっと多いのではないかな、と思います。
幸い、今のところ私の周りではウィルス騒動も暴動もなく、普段とそれほど変わることのない日常が続いていますが、ニュースを見ればそこには信じがたいような情報が流れていて、色々なことを考えさせられた半年間でした。
そんな中でも、4月頃だったでしょうか、ウィルス騒動がピークに達していた頃、心がパァッと晴れるような、とても嬉しいニュースを目にしました。
それは、パンデミックにより人間が社会活動を止めた結果、地球の環境汚染が至る所で大幅に回復したというものです。
中国やインドの大気汚染は数十%も改善され、イタリアでは水路にイルカやクラゲが戻ってきたり、人間が消えた街中を野生動物たちがトコトコと闊歩していたり・・・まるでパンデミックの副作用のようなそのニュースたちに、私は、この人間がパニックになっている世界の主旋律の裏に静かに流れる、優美なカウンターメロディーを拾ったような気分になったのでした。
そういえば、夜に散歩をしている時も、なんだか最近星がくっきりと見えるようになった気がするなぁと思っていたのですが、それもそのはず、飛行機がほとんど飛んでいないため、上空の空気が綺麗になったのですよね。
そしてそんな夜空を見ながら、私は思ったのです。
こんなにまで地球を汚して負担をかけて、私たち人間は一体何をしようとしていたのだろう?
その、一生懸命になっていた目の前のことは、果たしてそんなに必要なことだったのか?
私たちは、今までずっと、余計なことをし過ぎてたんじゃないの?
どんなに生きるために精一杯に働いたって、どんなに成功しようと頑張ったって、どんなに幸せになろうと努力したって、土台の地球が壊れてしまったら、結局私たちだって生き延びられはしないのに。
これは、決して理想論的なセンチメンタリズムではありません。
これからは人間社会だけでなく、地球環境というもっと大きな括りで見ていく視点がないと、何事も発展しないし続いてもいかないのではないかということを、改めて強く深く、感じたのです。
パンデミックが個人にもたらす影響や意味は人それぞれだと思いますが、「人類」という括りで見た時には、そういった意味で、このパンデミックはかなり大きな警鐘となっているのではないかと思うのです。
そしてこのことについては、私たち個人個人の「意識」が本当に重要なのだと思っています。
私は2017年の12月にエジプトへ行ったのですが、その空気汚染は酷いものでした。
2日でダウンし、なんと40度近くの高熱に見舞われて、ホテルの部屋に医師を呼んで抗生物質を大量に投与され、なんとか旅程を終えてフラフラになりながらフロリダに戻ってくるという経験をしたのですが、その後調べてみるとカイロの大気汚染は北京の5倍であるという記事を見て、なるほど・・・と納得したのです。
とんでもない状態を目の当たりにし、これは何とかならないのかと思ったのですが、旅の途中で出会ったほとんどのエジプト人のことを思い出すと、皆日々の生活費を稼ぐことに忙しく、とても環境汚染などに構っていられるような意識状態ではないのだということが容易に推測でき、複雑な気持ちになりました。
悪循環が起こっている事に気づいていない、もしくは気づいていたとしても、そのために何ができるかを知らないか、知っていてもする気がない、そんなことを気にする余裕がない、という状態なのでしょう。(これは私たち全員にも言えることですね。)
また、10年前に日本からボストンへ引っ越した頃に、ちょうど日本のイルカ漁をターゲットにしたアメリカ製作のドキュメンタリー映画が公開されたのですが、その時、その作品に対しての日米双方の感想があまりにも違っていることに、意識の落差を感じたことも思い出しました。
これはどちらが良いとかいうことではなくて、ただ、立場によってまるで見ている世界・・・つまり意識が違うのだなということを、痛切に思い知ったのです。
伝統を継続することと、自然保護の立場から見た視点の違い。
ただ代々行われていることを疑問を持たずに続けている視点と、倫理的な問題点に気づきそこを改善していこうとする視点の違い。
日本の古い漁村の漁師さんたちの感覚と、映画製作側の動物を搾取したくないという強い正義感・・・両者の間のあまりにも大きな意識の違いが手にとるように感じられ、その二つが交わり分かり合うためには、時間とそれ相応の取り組みがなければ難しいのだろうなと思いました。
私が自然環境のことに真剣に関心を持ち始めたのも、ちょうどその頃でした。
それまで日本に住んでいた間は、食品添加物や農薬、動物搾取の問題は気になってはいたものの、当時の日本の一般層にはまだそれほど問題視されておらず、私もせいぜいスーパーやコンビニで製品の裏のラベルを見て買う物を選んだり、ヴィーガン・カフェのトイレに貼ってある動物搾取のチラシにグサリと傷つきながらも、見て見ないふりをするのが精一杯でした。
ですが、アメリカに来てみると、一般的にそういったことに対する関心が高く、オーガニック製品やベジタリアン・メニューがあまりにも自然に生活に溶け込んでいて、驚いたものです。
環境問題だけに限らず、人々は好きなように主義をチョイスし、自分の望む生き方を実践している・・・そんな姿に、私も少しずつ思うところを実行に移していきました。
食べ物や肌につけるものはできるだけオーガニックのもの、洗剤などは土壌や河川を汚さないものを買うようにし、出かける時には水筒を、買い物にはエコバッグを持参し、サランラップやジップロックはシリコンや蜜蝋製の使い捨てでないもので代用するようになりました。
できる限り肉食を減らし、体調が悪い時には薬の代わりにホメオパシーやハーブなどのナチュラルレメディーを使うように。
殺処分待ちのシェルターから捨て猫を引き取ったり、収入の一部を環境保護団体への寄付へまわしていた時期もありました。
なんだかこう書くとストイックに感じたり、いかにも「良いことをしています!」とアピールしているようにも感じられるかもしれませんが、これらは数年かけて調整しながら無理なく自然に移行していったものであって、むしろ自分の好きなことをしているという感覚です。
そしてこれらのことは今では普通の生活スタイルとなっているので、特にエコな生活をしているという意識もなかったのですが、先述したパンデミック関連のニュースを見て、私は地球に優しい生き方ができているかな?と思い返してみたところ、あぁ、一応これだけのことはしていたんだった、と改めて認識したのでした。
本格的なエコロジストの視点から見ると、私の生活はまだまだムダやエゴだらけだと言われるレベルのものでしょう。
けれども個人的には、10年前の生活からすると地味ながらも確実に変化していますし、これからも「やりたいな」「できそうだな」と思ったことは楽しみながらひとつひとつ取り入れていきたいなと思っています。
一方で、こういったことは本当に、先ほども書いたようにバックグラウンドが重要なのだということも実感しています。
どのような環境にいて、どのような視点を持っているかで、意識は全く変わってくるからです。
私がずっと日本で暮らしていて、今のような生活ができていたかどうかは、少し疑問に思います。
深い歴史と伝統があり、上下関係があり、人との調和を重んじて皆と同じであることを良しとする日本では、やはり取り組みは難しかったのではないかと思うのです。
その点アメリカでは、そもそも歴史が浅いため伝統に拘らず、常に改善点を見つけてより良く新しいものを生み出していく文化であり、さらに個人を尊重する点からも、日本で言う「変わった」ライフスタイルも取り入れやすいのです。
そしてこれまた、どちらが良いとかいう話ではないので、難しいなと思うところです。
ただ、今の世界の状態を見ていて、「個人」の視点で見るか、「国」や「文化」単位の視点で見るか、「人間社会」の括りで見るか、それとも「地球全体」まで視点を広げられるか・・・というのは、とても大きな違いを生むし、問題の解決度合いのスケールが変わってくるのではないか?と思うのです。
産業革命以降、世の中が効率良く便利になったその一方で、消費し切れないほど過剰にモノが製造されるようになり、同時に大量のゴミが生まれることとなりました。
今や文明社会のゴミの廃棄量は酷く、自然分解されないプラスチックや汚染物質によって、土壌汚染、海洋汚染へとつながっています。
海辺で死んだ魚や海鳥の胃袋の中は、無残なほどにプラスチックの欠片でいっぱい。
そしてそれは自然動物だけでなく、私たちも同じで、一週間に私たちが気づかず摂取しているプラスチックの量は、クレジットカード一枚分だとも言われるそうです。
そして何気なく食べている動物の肉についても。
彼らがどんな方法で育てられ殺されているか、どれだけの必要でない命までが人間のために搾取され、なおかつ消費しきれずに廃棄されていることか。
それにもちろん、彼らの飼育のために使われた有害な化学物質やホルモンは、私たちの体にも入ってきているわけです。
科学技術の発展や肉食に対する議論の前に、様々なことが不適切な動機により不適切な方法で行われていることや、必要以上に過剰な生産をしていることに問題があるのではないかと思います。
ですからこう言ったことを、単に「環境問題」と括るのもちょっと違うような気がしていて、もっと深く見てみると、これらはやはり人間の「意識の問題」だと思うのです。
地球上の人口増加のグラフを見ると、産業革命後には人口が異常な増え方をしていることにも気がつきます。
人類がネアンデルタール人として誕生した十数万年前からつい200年ほど前の産業革命あたりまでは、人口は緩やかーに増加している程度で、グラフで見るとほぼ平行線なのですが、産業革命の辺りからグンと上向きにカーブを描いて急激に増加しているのです。
そして20世紀には一気に2倍に増え、さらに21世期に入ってからの増え方は本当に異常なほどで、このまま行くと2050年には100億近くにもなると予想されています。
この急激な人口増加の理由としては、医療技術の進歩や、昔のように戦争でたくさんの人が亡くなることがなくなってきたということもあるのだと思いますが、それにしても驚きを隠せません。
そして何よりショックなのが、この増え方は・・・なんと、癌細胞やウィルスと同じ増え方なのだそうです。
これは・・・考えたくはないけれど・・・やはり考えてしまうのです。
人間は地球の癌細胞、ウィルスなのでは?!・・・ということを。
今、私たち人類はウィルスの脅威にさらされてパニックになっているわけですが、実はその私たち自身が地球のウィルスであったとしたら・・・
もちろんこれも、ひとつの見方に過ぎません。
でも、そのように見てみた時、何らかの感情や考えが自ずと湧き出てきて、そこから意識の変化が起こることもあるのではないでしょうか。
ちなみにもし私が地球だったら、この異常に増殖し自分の体を蝕むウィルスを、そのまま野放しにしておくことはないのだろうと思います。
「サスティナブル」というのは、もう聞き飽きたような言葉かもしれませんが、ここにきて私の心に浮かんでいるのは、やはりこの言葉です。
今回は環境問題に特化して書いてきましたが、サスティナビリティとは環境問題に留まらず、全ての事柄に関して言えることなのだと思っています。
というより、全てのことが否が応にも繋がっているので、環境問題もその中の一部である、と言ったほうがいいのかもしれません。
例えば個人レベルにおいても、自分が全ての意味においてサスティナブルな存在かどうかを「意識」することが大切なのではないかと思います。
環境問題に熱心かどうかという意味ではなくて、もっと単純に、自分の体や精神、そして仕事や家族、ライフスタイル、自分を取り巻く環境など、色々なことに無理がないかどうか、過不足がないかどうか、豊かさを感じられているかどうか、というようなことです。
その在り方は人それぞれで、誰かの真似をする必要はなく、強制される必要もなく、そのためには自分自身の心地よさを知っていることがまず何より大切なのだとも思います。
もちろん時には病気になったり、仕事を失ったり、トラブルに見舞われたりすることもあるでしょうけれど、そういったことは問題ではなくて、自己循環システムが正常に機能していればそのうちまた回復するでしょうし、場合によっては違った方向性へと軌道修正したり、色々な変化がありながらも自分らしく命を継続していけるようであればいいのだと思います。
単に動物的な生存本能だけではなくて、私たちは自分自身の命のサスティナブルな運び方を、DNAレベルで知っているのではないでしょうか。
そんなふうに自分自身のサスティナビリティが感じられるようになると、きっとこの人間社会も地球環境も、それと同じ感覚でまわしていけばいいのだということがわかる日が来るのではないかな、と思います。
そして世界中の人々が全員そんなふうに生きられるようになった時、この世界には絶妙なバランスが生まれるのではないかと想像すると、なんだかとても優しい気持ちになれますね。
日々の生活の中で余裕のある時だけでも、自分のことを考える時は地球のことを考えるように、地球のことを知るときは自分のことを知るように・・・というような意識で見てみると、自然にサスティナブルな考え方、生き方に繋がるのではないかな。
この先、大変なこともあるだろうけれど、ゆくゆくは全ての命が尊重される、誰にとっても住みやすい、素敵な世界になるといいなと思います。