A Jewel Inside
Lunar eclipse 2015
月日の経つのは本当に早く…なんと、前回のブログからもう気付けば1年近くも経ってしまっていました。
こういう感覚ってやはりちょっと不思議で、私の中の長年の素朴な謎でもある「時間」について、想いを巡らせてしまいます。
昨年夏のユカタン半島への旅のお話も、もうすこし書きたいことがあったのですが、その後も色々と旅が続き、あっという間に2016年の6月というタイムラインに立っている自分にびっくりです。
去年はあれから、まず夏の終わりから初秋にかけては日本に帰国していました。
そしてボストンに戻ってくると、今度は小旅行でニューハンプシャーへ。
そのあと間も無くしてアリゾナへ一週間ほど行っていて、最後は年末にニューヨークへ。
そしてボストンに戻ってくると、今度は小旅行でニューハンプシャーへ。
そのあと間も無くしてアリゾナへ一週間ほど行っていて、最後は年末にニューヨークへ。
White Mountains, New Hampshire
一昨年の年末か去年の初め頃、私にはなぜか「もう、やりたいことは全部やる!」という決意のような、しかもちょっとした怒りのような気持ちが出てきていたのです。
そしてまずはどうしてもうずうずと、旅がしたいという気持ちが大きかったので、「これからはたくさん旅をする!」と決意して、それが一年を終わる頃に振り返ってみると、実際そのように叶っていたのでした。
今になって思ってみると、あの怒りは一体何だったのかなぁ…とちょっと可笑しくも思うのですが、あれはきっと、不満の裏返しだったのだろうなと思います。
そしてそれは何の不満かというと、一瞬、環境だとか他人だとかそういった要因が浮かんでくるのですが、結局つまるところは、他の誰でもない自分への不満だったのです。
ニューハンプシャーは森林の州。森の中を歩くのも、
泊まった小さなクラシカルなホテルも、とても気持ちが良かった。
自由に生きていたい…という気持ち、そしてそうしているはずなのに出てくる違和感や不要な努力…そんな小さなことが少しずつ溜まっていることに気がついて、自分の内側をよーく見ていってみると、それでも実は本当の自分の気持ちを封じ込めていたり、何かを出来ない言い訳を見つけては自分を納得させようとしていたことにハッとして、そんな自分にいい加減腹が立ったのだろうな…と思います。
それならば、自分の本当に望むことをちゃんと認めて、ひとつずつ叶えていってあげて、その先に何が見えるのか、それを見てみたい…と、それがその時私に湧いてきた、決意のようなものでした。
自分勝手と自分らしさの違いって、何でしょう?
その答えは、どこにもありません。
それを決められるのは自分しかいません。
他人の言葉はその人の価値観やその人の都合を反映しているだけで、どこにも正しさというものは実はありません。
ニューハンプシャーに滞在した日は、月食を伴う満月の夜。
月が地球の影にすっぽり覆われてブラッドムーンになり
また光を取り戻していく、その一部始終を観測しました。
月が影になっていくに従い星々が驚くほどたくさん輝いていて、それにも感動。
人は誰でもその人なりの絶対的な価値観というか信念を持っていて、無意識ながらもその信念に沿った生き方をしているものです。
例えばその基準がお金だったり、時間だったり、誰か特定の人であったり、世間で言われるところの常識であったりするのですが、大抵はそうして、自分の外側にあるものを取り入れています。
そして人間関係でも環境でも物でも、気づけばその基準に従って選ばれたものばかりが身の回りに溢れている…ということになり、人生のあらゆる選択の度に少しずつ、無意識にそうして自分の世界を創っていっているのですが、自分自身でない借り物の信念であった場合は、どんどん本当の自分らしさからは離れていってしまいます。
でも本当は誰でも、自分の中に宝もの…本物のセンサーを持っているはずなのです。その人だけの。
様々な価値観の中で迷って苦しくなった時、ふと私の信念、色々と判断しているその基準は何なんだろうな…と思ったことがありました。
そしてその時私は、ずっと自分の中に絶対に失くしたくない、何よりも大切なものがあることに初めて気がつき、それを守りたい一心で今まで生きてきたんだなぁ、ということを知りました。
アリゾナ、フェニックス郊外にある、建築家フランク・ロイド・ライトの
タリアセン・ウェストと、そこからの眺め。中西部の景色はやっぱり懐かしい。
2011年に訪れたセドナに再び。やっぱりもう、空気が違います。とても特別な場所。
そうすると、なぜ今までそう生きてきて、今このようにいるのかがすんなりと納得できたのです。
なぜなら、単純にただただ、その通りだからです。
その大切で絶対に守りたいと思えるくらいの信念が中心となって、私の人生は形作り彩られてきたのです。
そして苦しい時というのは大抵、借り物の信念を基準にして無理したり、自分を変に縛ったり鼓舞したりしている時です。
気づいてみると当たり前なのですが、これを本当に皆、無意識のうちにやっているのですよね。
ちなみに、その、私の絶対に失くしたくないもの、自分の中の一番の宝もの… それは、私の「感性」でした。
そして、そのために自由でいたいんだ、ということも分かりました。
ニューメキシコの乾いた地平線と、青い青い空。
ユカタン半島のゆるやかな時間の流れの中に佇む、太古の遺跡。
日本で訪れた神社の木の香りや、懐かしい時間。
ニューハンプシャーで見た神秘的な天体のマジック。
セドナの独特な澄んだ空気に、雨上がりの虹。
ニューヨークの雑踏と、立ち並ぶ建築、光と影。
トルコの伝統楽器の音色、歴史を重ねる悠久の大地。。。
Chapel of the Holy Cross, Sedona
そんなことを、心と体の全てを使って吸収して感じ切ることがとてもとても愛おしくて、だから私は色々なところへと訪れたいのだな…と思いました。
見たい。知りたい。感じたい。
それは日々の生活の中でも十分にできることなのですが、日常に埋もれて感性が鈍ってしまうと、私の中で自動的にSOSが発動されて、「旅に出たい!」という衝動で現れてくるのでしょうね。
ちょっと場所を移して日常から離れるだけで、感性の曇りは一気に取り払われ、ピュアな感度を取り戻すことができる。
そしてそれらは私の感性を潤し、五感を通して体の全細胞の隅々にまで響き渡って、震えるほどの幸福感を味あわせてくれるのです。
だから、私はもっともっと、その自分の感性を潤してあげたいし、何があっても守ってあげたい。
まだまだ見たいもの、行きたいところ、知りたいこと、感じてみたいことが、たくさんあります。
そんなふうに私を未知の感動へと導いてくれるこの感性と、これからもずっと一緒に生きていきたいなと、心から思うのです。
ニューヨークのハイラインからの眺め。向こうには自由の女神が。
NY、メトロポリタン別館、クロイスターズの回廊。
マンハッタンとは思えないような静かな場所に建てられた
中世ヨーロッパの修道院のような小さな美術館。
最後に、私の胸にグッときたり、心を自由にしてくれた詩を二編、ここにご紹介します。
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ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
−「自分の感受性くらい」茨木のり子
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わたしを束ねないで
あらせいという花のように
白い葱のように
束ねないでください わたしは稲穂
秋 大地が胸を焦がす
見渡すかぎりの金色の稲穂
わたしを止めないで
標本箱の昆虫のように
高原からきた絵葉書のように
止めないでください わたしは羽ばたき
こやみなく空のひろさをかいさぐっている
目には見えないつばさの音
わたしを注がないで
日常性に薄められた牛乳のように
ぬるい酒のように
注がないでください わたしは海
夜 とほうもなく満ちている
苦い潮 ふちのない水
わたしを名づけないで
娘という名 妻という名
重々しい母という名でしつらえた座に
座りきりにさせないでください わたしは風
りんごの木と
泉のありかを知っている風
わたしを区切らないで
「、」(コンマ)や「。」(ピリオド) いくつかの段落
そしておしまいに「さよなら」があったりする手紙のようには
こまめにけりをつけないでください わたしは終わりのない文章
川と同じに
はてしなく流れていく 広がっていく 一行の詩
−「わたしを束ねないで」新川和江