New Mexico and the Indian Pueblos
Taos Pueblo
先月ニューメキシコへ訪れた際、ユネスコ世界遺産にも登録されているタオス・プエブロに行ってきました。
タオス・プエブロとはニューメキシコ州の北部のタオスという街の付近、標高2000mを超える高地に1000年以上前から存在し続け、今もインディアン(ネイティヴ・アメリカン)の人々が暮らす集落です。
現在ニューメキシコ州には、22のインディアンの部族が存在しているのですが、その中の19の部族はプエブロと呼ばれる集落を形成して暮らしているため、通称プエブロ族と呼ばれています。
インディアンというと、ティピなどのテントに住み、バッファローを追いながら生活する移動狩猟民のイメージが強かったのですが、ニューメキシコに多く存在するプエブロ族は、昔からアドビ様式という日干しレンガの建物に住み、トウモロコシなどを栽培して暮らす定住農耕型で、インディアンの中でもめずらしい部族なのだそうです。
途中、前方の地面に巨大な割れ目を発見。大昔に地殻が動いて出来た
のでしょう。地球って生きているんだなぁと実感するような光景です。
その道のりは、背の低い乾いた植物がバラバラと生えた茶色い荒野にメサ(台状になった岩山)がそびえ立つ平地がしばらく続いたかと思えば、時には渓谷の間を抜けるような場所を通過し、目指す北の方角にはうっすらと雪をかぶった美しい山々を眺めつつ、いつでも視界の半分は広い青空で覆われているという、これぞニューメキシコだなぁ〜というダイナミックでありながらも静謐な風景に、久々に心が洗われるような気分でした。
こんな風に、人工物のほとんど見えない場所をひたすら行くというのは、ボストンでも日本でも、なかなか経験のできないことです。
タオス・プエブロに到着してみると、標高を上がった分また少し空に近づいたかのような特別な空気感を感じました。とっても寒いのだけれど、その澄み切った空気と曖昧さのない冬の太陽の光に包まれて、ちょっとした別世界のよう。
中央を流れる小川がチョロチョロと音を立て、雪解けに反射した太陽の光がボヤーッと広がり、アドビの素朴な住居の背後からはうっすらと雪化粧をした山々がその美しい姿を覗かせていて、どこまでものどかで素朴。なんだか原風景を見ているようで、時間がとてもゆっくりと流れている感じがしました。
中に入ると夏は涼しく冬は暖かく、耐久性にも優れたこの建築は、暑く乾燥したこのあたりの気候に適しているのだそう。
その土地の土からつくられただけあって、質感も色も大地としっくりと馴染み、まるでつながっているかのような一体感があります。
見た目も素朴でほっとするし、この茶色と空の青さのコントラストがまた美しくて、エコロジーと美意識を兼ね備えたすばらしい建築だなぁと思います。
この集落には今も数家族が暮らしていて、電気も水道もない生活をしているそうです。
その他にはスペイン人によってもたらされたカトリックの教会や、インディアン・ブレッドを焼く釜、そして住居の中で手作りのインディアン・ジュエリーや陶器を売っている小さなお店などがあり、店番をしている住民の方とちょっとしたおしゃべりをしましたが、皆大人しいけれども気さくで話好きな印象を受けました。
San Geronimo Church
19あるニューメキシコのプエブロの中でもタオスの歴史は古く、ナバホ族やアパッチ族のような敵対する部族からの攻撃、そしてスペイン、メキシコ、アメリカと様々な勢力からの弾圧が錯綜する激動の数百年の間、時には他のプエブロをまとめて敵軍と交渉したりと、重要な役割を担ってきたそうです。
今回説明を受けた中に、ひとつとても悲しいエピソードがありました。
この集落のすぐ外側に墓地があるのですが、そこは昔は教会だったのだそうです。
ある時メキシコ軍が攻撃を仕掛けてくるとの情報を得たタオスの人々は、いくらメキシコ軍でもさすがに神聖な教会を攻撃することはないだろうと考え、女性と子供を全員その教会の中に匿ったのです。ところが、無慈悲にもその教会は破壊され、その中にいた人々は全員殺されてしまいました。悲しみと絶望に暮れた人々は、その跡を墓地にして亡くなった方を弔ったということです。
200年近く前の、悲しい歴史を持つ教会跡と墓地。
その後現在の位置にサン・ジェロニモ教会が再建されました。
その後現在の位置にサン・ジェロニモ教会が再建されました。
ところが、コロンブスによってアメリカ大陸が発見されてからというもの、その歴史は一転して虐殺や迫害といった苦しみ、そして何よりも、長い年月をかけて地球と寄り添い暮らしながら連綿と受け継いできた、彼らの全てとも言える信仰や精神性までもを奪われ貶められるという、屈辱の歴史へと塗り替えられてしまったのです。
ここ30〜40年ほどでインディアンの精神復興運動は徐々に高まりを見せてきていますが、一体現代のインディアンの人々はそのような自分たちの歴史をどのように受け入れ、このアメリカという国の中で自らの存在をどのように捉えて、どんな気持ちで生きているのでしょう。
彼らは、史実や一通りのことは気さくに説明してくれるのですが、いざ民族独得の習慣やしきたり、宗教観や精神的なことについては、口を閉ざし語ってはくれません。
キリスト教を信仰している傍らで、現在でも伝統的な信仰を持ち続けているそうなのですが、その詳細は、外部に対しては徹底して沈黙を貫いています。
それ以上立ち入ってはいけない、というその雰囲気をもどかしく感じながらも、明らかに何か深く大きなものを秘めた彼らの沈黙に、こちらも自然と敬意を払うより他はありません。そういう秘められた何かと威厳が、彼らにはあるのです。
それは、ユカタン半島でマヤの人々に対して感じたことにも似ていて、以前ニューメキシコに住んでいる間に訪れた、アコマ・プエブロでも同じように感じたことを思い出しました。
アコマ・プエブロについては以前このブログに書いたことがあるのですが、10世紀頃には建設されたと言われるニューメキシコ中部に位置するプエブロで、平原にそびえ立つメサの断崖の上にあることから、別名 "Sky City"と呼ばれています。
Village in the Sky
この日は、マーケットの催しとして、初めてインディアン・ダンスを見ることができました。
インディアンの人々にとって踊りとは、祈りの儀式。イーグル・ダンス、バッファロー・ダンス、ベア・ダンス、コーン・ダンスなど、各部族に様々なダンスが踊りが受け継がれています。とても伝統的で神聖なものなので、通常は部族内だけの儀式の一部として行われるようなのですが、こうして外部に向けてダンスのみを披露しくれることも時々あるのです。
この時見ることができたのは、頭にバッファローの被り物をして踊る、バッファロー・ダンス。
普段は農耕をして暮らしていた温厚なプエブロ族ですが、たまに集落に近づいてきたバッファローを狩ることもあったようで、元々はその到来を祈るための儀式だったようです。
太鼓と祝詞のような歌声に合わせて、全員揃ってステップを踏みながら前進したり後退したりと、わりと単調な踊りなのですが、ジャンプをするたびにダンサーの持つマラカスのような楽器や腰につけた鈴がシャラシャラと鳴り、どことなく日本の神道の儀式と似ているような印象を受けました。
このサント・ドミンゴが、ニューメキシコに引っ越してから私が一番初めに訪れたプエブロだったのですが、その住民の人たちを見て、なんだかとても親しみを感じたことを覚えています。
顔形がアジア人と似ていることもそうなのですが、少しおしゃべりをしてみると、素朴で静かで親切なところなど、いわゆる「アメリカ人」とは全く違っていて、黙っていても表情や仕草に滲み出るものに、どこか私たち日本人と通じるものがあるような気がしたのです。
それから、先月ニューメキシコを訪れた際に、予定が合わなくて行くのを断念したプエブロがあります。
ニューメキシコ州の西の外れ、アリゾナ州にほど近いところにある、19のプエブロ族の中でも最も大きいズニ・プエブロです。
ズニ族というのはとても謎に満ちた部族で、言語や文化などに周辺の他のプエブロ族との関連性がほとんど見られず、独特なのだそうです。カチナという精霊を信仰し、独特の宇宙観を持つところは、主にアリゾナに居住するホピ族に近いそう。(ホピもまた、長い間に渡って人類創世の神話や予言を語り継いでいる神秘的な部族として知られています。)
日本人との関連があるとみている人類学者もいるそうで、数々の類似性が指摘されているのだとか。
色々な説があると思うのですが、ズニ族に限らず、どこかで繋がっていると考えても全然不思議じゃないなぁ・・・と私は思っています。
私がズニ・プエブロに行ってみたかった理由は、そのズニの神秘性に惹かれただけではなく、実は彼らの作り出すフェティッシュというお守りが大好きだからです。
フェティッシュとは、石や貝、木の実や動物の角などの天然素材を使って様々な動物の形に彫り込んだもので、元々は呪術的な要素もあったり、代々家系で受け継がれるような特別なものだったのだそうです。
今ではズニのアーティストが作品として作ったフェティッシュが、アルバカーキやサンタフェでもお守りとたくさん売られていて、私は以前からその素朴な魅力にハマっていたのです。
自然と共に生きてきたインディアンの文化は、動物とも深いつながりがあります。
地球の上で共に生きる同胞であり、時には脅威でもあり、教師であり恵みでもあった様々な動物たちを敬い、彼らの隠されたパワーを得ようとしたのがこのフェティッシュの始まりなのだそう。
そのため、例えばモチーフとして最もポピュラーなクマは癒しや力を象徴し、内観する手助けをしてくれる、コヨーテはユーモアをもって柔軟に生きることを教えてくれ、バッファローは忍耐力や困難を乗り越える力を与えてくれるといったように、それぞれの動物に違ったパワーが秘められています。
本当に様々なタイプのフェティッシュがあるので選ぶ時には迷ってしまうのですが、あまり考えすぎず、手にとって感じてみたり、インスピレーションを大切にして選ぶといいようです。
そんな魅力的なフェティッシュが生み出される場所、ズニ・プエブロにはまた次の機会に訪れてみたいな、と思います。
若い頃、インディアンの本を読んで、彼らにある種の憧れを抱きながらもどこか遠い昔のおとぎ話ように思っていた時には、まさか将来自分が彼らと同じ土地に住み、その世界に触れられるような経験をすることになるとは、夢にも思っていませんでした。
実際に現実を見てみると、インディアンの人々が直面している社会問題に複雑な気持ちになったり、プエブロを訪れてみても表面だけをさらっと通り過ぎて終わりで少しガッカリしたものですが・・・それでも、二年間彼らと同じ場所に住み、同じ空気を吸い、同じ空を見ながら暮らしたことで、本を読むだけでは分からなかった大きな実感のようなものが得られて、それらは二年の間に私の中にジワジワと浸透していき、今では自分の大切な一部となっています。
「地球上にこんな場所があってよかった。」
ニューメキシコにいて、何度かそんなふうに思ったことがありました。
広大な逞しい大地や、その遥かな地平線上に真っ赤になって沈みゆく夕陽。澄んだ空気に、時折降り注ぐ恵みの雨を一身に受ける植物と、その中でしなやかに生きる野性動物たち。
自分たちの本質も分からず、情報と物質にまみれ虚像に埋もれてしまった現代社会の私たちに、忘れていたどころか初めて見るような本当の地球の姿を、五感の全てをもって感じさせてくれ、本当はどうあるべきかを考えさせてくれる場所。
その中にこんなにも神性が感じられるのは、太古の昔から自然を敬い地球と共に生き、今もなおその精神を失わずにこの地を静かに見守り続けている、インディアンの人々の祈りがあるからなのではないでしょうか。それは彼らからの最大のメッセージであり、ギフトでもあるような気がします。
正面のメサの上に見えるのがアコマ・プエブロ。
高い岩山の上に築かれたそのプエブロは、空が近くてまるで物語に出てくる天空の要塞のような雰囲気で、ここもまた別世界でした。
そしてタオスと同じように、アドビの住居やカトリックの教会があり、略奪部族やスペイン、メキシコからの侵略やアメリカからの弾圧を受け続けてきた歴史があります。
彼らがこのような高い場所にプエブロを構えたのは、そういった外敵から身を守るためだったのだろうと思いますが、その立地からか、今でも現代社会とは少し距離を置いた生活を送っているようで、アコマの人々はタオスよりももう少し朴訥でシャイな印象を受けました。
そして彼らも、ずっと受け継がれている儀式や精神的なことは部族内だけの秘密なのだと言っていたことが、何かとても印象に残っています。
アコマ・プエブロからの眺め。遠くまで見渡すことができて、
現在でも周りには本当に何もないところでした。
以前訪れたことのあるプエブロに、もう一つ、サント・ドミンゴ・プエブロがあります。こちらのプエブロはインディアン・ジュエリーで有名で、毎年夏になるとインディアン・クラフト・マーケットを開催するので、たくさんの人が訪れるのです。
当日はプエブロがお祭り仕様になっているので、普段がどんな雰囲気なのかは分からなかったのですが、教会を中心として集落が形成されているのは他のプエブロと同じ様子で、ただこちらは立地がアルバカーキやサンタフェから近いので、タオスやアコマの人々と比べるとだいぶ現代的な生活をしているような感じがしました。
けれども聞くところによると、その性質はとても伝統的かつ保守的なのだそう。
サント・ドミンゴのインディアン・マーケットの様子。
真夏の太陽がジリジリと照りつける暑〜い日だったことを思い出します。
インディアンの人々にとって踊りとは、祈りの儀式。イーグル・ダンス、バッファロー・ダンス、ベア・ダンス、コーン・ダンスなど、各部族に様々なダンスが踊りが受け継がれています。とても伝統的で神聖なものなので、通常は部族内だけの儀式の一部として行われるようなのですが、こうして外部に向けてダンスのみを披露しくれることも時々あるのです。
普段は農耕をして暮らしていた温厚なプエブロ族ですが、たまに集落に近づいてきたバッファローを狩ることもあったようで、元々はその到来を祈るための儀式だったようです。
太鼓と祝詞のような歌声に合わせて、全員揃ってステップを踏みながら前進したり後退したりと、わりと単調な踊りなのですが、ジャンプをするたびにダンサーの持つマラカスのような楽器や腰につけた鈴がシャラシャラと鳴り、どことなく日本の神道の儀式と似ているような印象を受けました。
このサント・ドミンゴが、ニューメキシコに引っ越してから私が一番初めに訪れたプエブロだったのですが、その住民の人たちを見て、なんだかとても親しみを感じたことを覚えています。
顔形がアジア人と似ていることもそうなのですが、少しおしゃべりをしてみると、素朴で静かで親切なところなど、いわゆる「アメリカ人」とは全く違っていて、黙っていても表情や仕草に滲み出るものに、どこか私たち日本人と通じるものがあるような気がしたのです。
Santo Domingo Buffalo Dance
それから、先月ニューメキシコを訪れた際に、予定が合わなくて行くのを断念したプエブロがあります。
ニューメキシコ州の西の外れ、アリゾナ州にほど近いところにある、19のプエブロ族の中でも最も大きいズニ・プエブロです。
ズニ族というのはとても謎に満ちた部族で、言語や文化などに周辺の他のプエブロ族との関連性がほとんど見られず、独特なのだそうです。カチナという精霊を信仰し、独特の宇宙観を持つところは、主にアリゾナに居住するホピ族に近いそう。(ホピもまた、長い間に渡って人類創世の神話や予言を語り継いでいる神秘的な部族として知られています。)
日本人との関連があるとみている人類学者もいるそうで、数々の類似性が指摘されているのだとか。
色々な説があると思うのですが、ズニ族に限らず、どこかで繋がっていると考えても全然不思議じゃないなぁ・・・と私は思っています。
ズニ・プエブロにほど近いエル・モロ国定公園にある、
ズニ族の先祖だと言われるアナサジと呼ばれる人々の遺跡。
こちらも高い岩山の上に住居跡と、岩肌にはペトログリフが。
私がズニ・プエブロに行ってみたかった理由は、そのズニの神秘性に惹かれただけではなく、実は彼らの作り出すフェティッシュというお守りが大好きだからです。
フェティッシュとは、石や貝、木の実や動物の角などの天然素材を使って様々な動物の形に彫り込んだもので、元々は呪術的な要素もあったり、代々家系で受け継がれるような特別なものだったのだそうです。
今ではズニのアーティストが作品として作ったフェティッシュが、アルバカーキやサンタフェでもお守りとたくさん売られていて、私は以前からその素朴な魅力にハマっていたのです。
今うちにあるフェティッシュは3つ。
左からタグアナッツのバッファロー、フィッシュロックで出来たコヨーテ、
木彫りのクマ。コヨーテの口元から出ている矢印は生命力を表すハート
ラインと言って、多くのフェティッシュに見られるデザインです。
自然と共に生きてきたインディアンの文化は、動物とも深いつながりがあります。
地球の上で共に生きる同胞であり、時には脅威でもあり、教師であり恵みでもあった様々な動物たちを敬い、彼らの隠されたパワーを得ようとしたのがこのフェティッシュの始まりなのだそう。
そのため、例えばモチーフとして最もポピュラーなクマは癒しや力を象徴し、内観する手助けをしてくれる、コヨーテはユーモアをもって柔軟に生きることを教えてくれ、バッファローは忍耐力や困難を乗り越える力を与えてくれるといったように、それぞれの動物に違ったパワーが秘められています。
本当に様々なタイプのフェティッシュがあるので選ぶ時には迷ってしまうのですが、あまり考えすぎず、手にとって感じてみたり、インスピレーションを大切にして選ぶといいようです。
そんな魅力的なフェティッシュが生み出される場所、ズニ・プエブロにはまた次の機会に訪れてみたいな、と思います。
El Morro National Monument
若い頃、インディアンの本を読んで、彼らにある種の憧れを抱きながらもどこか遠い昔のおとぎ話ように思っていた時には、まさか将来自分が彼らと同じ土地に住み、その世界に触れられるような経験をすることになるとは、夢にも思っていませんでした。
実際に現実を見てみると、インディアンの人々が直面している社会問題に複雑な気持ちになったり、プエブロを訪れてみても表面だけをさらっと通り過ぎて終わりで少しガッカリしたものですが・・・それでも、二年間彼らと同じ場所に住み、同じ空気を吸い、同じ空を見ながら暮らしたことで、本を読むだけでは分からなかった大きな実感のようなものが得られて、それらは二年の間に私の中にジワジワと浸透していき、今では自分の大切な一部となっています。
「地球上にこんな場所があってよかった。」
ニューメキシコにいて、何度かそんなふうに思ったことがありました。
広大な逞しい大地や、その遥かな地平線上に真っ赤になって沈みゆく夕陽。澄んだ空気に、時折降り注ぐ恵みの雨を一身に受ける植物と、その中でしなやかに生きる野性動物たち。
自分たちの本質も分からず、情報と物質にまみれ虚像に埋もれてしまった現代社会の私たちに、忘れていたどころか初めて見るような本当の地球の姿を、五感の全てをもって感じさせてくれ、本当はどうあるべきかを考えさせてくれる場所。
その中にこんなにも神性が感じられるのは、太古の昔から自然を敬い地球と共に生き、今もなおその精神を失わずにこの地を静かに見守り続けている、インディアンの人々の祈りがあるからなのではないでしょうか。それは彼らからの最大のメッセージであり、ギフトでもあるような気がします。
Cabezon Peak at dusk