Tea for us


日本を離れてから、日本のこと、その中でも日本人の心性について
より深く知りたいと思うようになりました。

アメリカで暮らしていてふとしたことで感じる違和感・・・それは
いったいなぜだろうと考えたとき、照らし合わせるのは日本でずぅっと
当たり前のように見てきた日本人の考え方、行動、心の在り方。

そんなことを考えだすと色々と探究心が止まらなくなって、こちらへ
来てからずいぶんと、色々な種類の本を読みました。
日本人の人種的な起源から日本語の成り立ち、仏教、神道、武士道
・・・そうしてみるとなるほどなぁと思うことが多くて、それまで
自分のことを特別日本人らしいとは思わなかった私でも、自分の中に
脈々と流れる日本人の情緒や性質を実感せずにはいられませんでした。

これまでイングリッシュ・ライティングのクラスでエッセイを書いた
ときにも、陶芸を始めてからも、いつも何かを表現しようとする度に
アメリカ人の先生や友人たちには私の言いたいことがうまく伝わらず、
四苦八苦することが当たり前のようにあったのですが、それらは
言葉の壁以上に、私の思う、美しい、良い、というニュアンスが
どうしても理解してもらえないというもどかしさでした。

飾り立てずにシンプルでありたい。
始まりから終わりまでの自然な流れを保っていたい。
佇まいや余韻を大切にしたい。

何かをつくるときに私がいつも共通して思うのはそういったことなの
ですが、 そういうところにたおやかさを見出す感覚や、微かな行間に
流れる空気のようなものに想いを馳せられるのは、まさに日本人なら
ではなのだなぁといつも思い知らされます。

さらに、陶芸をしていることで、器の形や使い方からも、日本の心を
意識させられることがたくさんあります。
例えば、同じ形、同じ色でセットを組んでディナー・ウェアとして使う
西洋と比べると、日本は様々な種類の器を見事に組み合わせて、実に
趣のある食卓を作り出しますが、これは季節感も豊かな日本の食文化に
沿った、美意識溢れる素晴らしいセンスだなぁとつくづく感心します。

飲み物を飲む器ひとつにしても、西洋のティーカップやマグカップは
持ちやすいように取っ手を付けているのに対し、日本の湯のみや
お茶碗は高台をしっかりと作って、中の飲み物を五分六分と少なめに
入れ、高台と茶碗の上部に手をかけて持つことによって、熱い飲み物
でも美しく飲めるよう所作の方に工夫をしています。
これも日本人のシンプリシティを愛する心や、開発するよりも工夫する
という性質の表れなのかなぁと思うと、素敵だなと思います。


最近は岡倉天心の「茶の本」を読んでいるのですが、彼はボストンに
いたこともあり、時代は違えども西洋と東洋の溝に対する感覚に、
何か不思議なシンクロを感じながら、そして当時英語でこれら日本の
感覚を的確かつ美しく表現しようとしたことに、尊敬と感謝の気持ち
を感じながら読み進めています。

そしてそこに書かれていることは、今の日本人にとっても失われつつ
あることであったり、形式のみ残されていてその精神は忘れ去られて
いることであったり・・・私は形式的なものが本当に苦手なのですが、
その奥にある精神を理解することで、するっと受け入れることができた
りして、本当に大事なものはそこなのだなぁとしみじみ思っています。

最近は器を作りながらそんなことを考えたり、そうして作った器で、
ほっと一息つくためにお香を焚いて、お抹茶を点てたり。

そうしていると、その静かな時間の中で、なつかしい日本家屋の畳の
匂いや、襖や床の間のイメージがふっと香るように蘇ってきて、いつも
私の心はしばらくの間、日本へとトリップしてしまうのです。


ー茶の哲学は、世間で普通に言われている、単なる審美主義ではない。
 それは倫理と宗教に結びついて、人間と自然に関するわれわれの
 全見解を表現しているからである。
 それは衛生学である、清潔をつよく説くから。
 それは経済学である、複雑奢侈よりは単純さの中に慰安を示すから。
 それは精神の幾何学である、宇宙に対するわれわれの比例感覚を
 定義するが故に。
                    岡倉天心『茶の本』より

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