It's a Small Universe


私の実家の敷地の片隅には、高祖父(ひいひいおじいちゃん)が彫った
という弘法大師・空海上人の像が納められた小さな祠があります。

子供の頃から、庭に出ると、父に「弘法さまにお参りしなさい」と
言われて、「こうぼうさま〜?」とワケも分からず大人のまねをして
ナムナム・・・と唱えながら手を合わせていたものですが、いつしか
それは習慣のようになって、大人になってからも実家に帰省すると
自然とそこに手を合わせるようになっていました。

父は若い頃、苦しい時には空海の考え方にずいぶんと助けられたようで
折に触れて、曼荼羅の話や「自分がいるから世界がある」という観念的
な話をよくしてくれました。
叔父や従姉妹も空海に興味を持っていたりして、親戚一同が集まる場で
はそんなアツい会話が交わされたりもしていたのですが、私はと言えば
若い頃はそんな話には何の興味もなく、馬の耳に念仏状態・・・。

ところが大人になるにつれて、人生の中で様々な悩みに直面すると、
自分なりに書物や人から精神的なものの見方や人生の叡智を学ぶように
なり、そしてある時「あぁ、父の言っていたことはこれだったのか!」
と、思いがけず全てが繋がる瞬間がやって来たのでした。

そして同時に、あのいつも手を合わせていた「弘法さま」が空海のこと
だったのだという事実を初めて認識して、驚いてしまいました。
ちょっと考えてみれば当たり前のことだったのに、「こうぼうさま」が
弘法大師・空海のことだったなんて・・・ あまりに身近すぎて、ずっと
そんなふうにつなげて考えたこともなかったのです。

長い間一生懸命に探していたものが、実は子供の頃からすぐ側にあった
ことに気づき、なんだか拍子抜けしたような、笑ってしまいたくなる
ような、そんな気分でした。


先月帰国した時にも、私は久しぶりに弘法さまに手を合わせました。

二月の冷たい空気の中、目を閉じて手を合わせていると、心がしんと
静まり返り、全てのものが自分の中にシュルッと集約していくような
感覚になりました。

空から降り注ぐ柔らかい陽射しや木々のざわめき、小鳥のさえずりに
虫の羽音、そして全てを取り巻く宇宙・・・それらが優しく一体となり
私を包み込んでくれているような、もしくはそれらは全部私の中に存在
しているような・・・

そんな中、私はふと、ニューメキシコでのとあるエピソードを思い出し
ました。



ニューメキシコで最初に住んでいたアパートの隣人に、ドラという
南米出身の女性がいました。
多くのラテンウーマンがそうであるように、たっぷりとした身体に
陽気な気質で、5歳になるアイザックという可愛い息子さんとの
2人暮らし。

ある日、ちょっとした用事があって彼女の部屋にお邪魔した時のこと、
玄関を入ってすぐに、仏陀の像が置いてあるのを見つけました。
こちらではインテリアとして東洋的なイメージで仏像を置いていること
もあるのですが、彼女はそういうイメージとはかけ離れているように
感じたので、私は少し意外に思いました。

その私の様子を見てか、彼女が「あなた日本人よね?仏教徒なの?」と
尋ねてきたので、私は少し戸惑ってしまいました。
宗教の話はとてもデリケートだからです。

「一応、家はそうだけれど。でも私自身は無宗教だよ。」

無難にそう答えながら玄関の方に目を向けると、ドアの上には十字架が
掛けられているのが目に留まり、何だか不思議に思って私も尋ねました。

 「ドラはクリスチャン?」

すると彼女は、ううーん、という表情をして、
「何の宗教に属しているとかそういうことではないんだけど・・・」
と言ってから、

「でも、時々この近くにあるタイの寺院に通っているの。
 心が落ち着くから。」

その答えがまた意外だったので、ええ?そうなの?どうして?と聞くと
 彼女は少しずつ、自分の人生に起こったことを話して聞かせてくれたのでした。

中南米のいくつかの国々での劣悪な社会情勢、特に女性や子供の環境に
ついては、ニューメキシコにいる時に身近に感じて知るようになりました。

彼女がここに来るまでいったいどんな人生を送ってきたのか、その時の
話だけでは本当のところを知り得ることはできませんが、でも、少なく
とも私が日本でのほほんと幸せに過ごしてきた幼少期や青春時代とは、
全く違った世界で生きてきたのだということはよく分かりました。


そんな彼女は、16歳のとき、カリフォルニアで失意と混乱の真っ只中にいました。

人生が辛くて辛くてどうしようもない、でもどうしたらいいのかわから
ない・・・そんな苦しみの中、ある日たまたま目の前にあったお寺に、
衝動的に駆け込んだのだそうです。

「お願いです、助けてください!私を救ってください!」

そんな風にそこにいたお坊さんにすがりついたところ、そのお坊さんは
静かに言いました。

「お祈りとか、救うなどということは、ここではできません。
 そういうことではないのですよ。」

子供の頃からカトリックの環境の中で育ち、神に祈り救いを求めてきた
ドラには、そのお坊さんの言葉は大変ショッキングなものだったそうです。

宗教なのに、祈れない?救ってもくれない?!どういうことなの?

興奮して混乱しているドラにお坊さんは、とりあえずその場に座るよう
に促し、それからゆっくりと呼吸をするように言いました。

ドラは訳が分からないまま、とりあえず言われる通りに呼吸を始めました。

ゆっくりゆっくり。吸って、吐いて。深く、ふかーく。
そんなふうにしばらくの間繰り返すと、その内ドラは自分の心の中に
不思議なゆとりと落ち着きが生まれてくるのを感じました。

そして彼女が十分に落ち着きを取り戻すと、お坊さんはこう尋ねました。

「あなたは今、どこにいますか?」

ドラには、お坊さんの言っている意味がわかりませんでした。

どこにいるかって?何を言ってるのこの人?
そう戸惑いつつも、彼女は自分の状況を客観的に見てみました。

「どこにいる・・・って・・・
 私は今、ここに座って・・・そしてあなたと話しています。」

するとお坊さんはニッコリと微笑みました。

「ほら、今あなたは自分がどこにいるのか、ちゃんとわかっている。」


そういわれて気がつきました。
それまで、ドラの心は不安と混乱の中で、過去へ未来へとあちこちへ
飛び回り、全く「今ここ」にはなかったのです。

そんな時には呼吸も乱れて浅くなっているので、まず意識して呼吸を
整えることで、気持ちが落ち着き、頭も視界もクリアになって、
「今ここ」に戻ってくることができる・・・そして、今ここに戻って
来てこそ、これから何をすべきかがわかるのだと、お坊さんは彼女に
教えてくれたのでした。

そして最後にこう言ったのです。

「まずは自分自身だよ。
 自分が心穏やかで、幸せでなければ、何もできない。
 自分がいるから、世界があるんだよ。」  ・・・と。



「そんなことをそれまで私に教えてくれた人は誰もいなかったの。
 教会に行ったって、お父さんだっておばあちゃんだって、
 誰もそんなことを言う人はいなかったから、本当に本当に、
 すごく驚いた・・・」

思い返すように、ドラは言いました。

「だからそれからずっと、心を落ち着けたい時にはお寺に行くように
 なったの。今ね、私はいつもピースフルな気持ちでいられるように
 なったのよ。この子の為にも、まずは私が幸せでいなくっちゃね。」

そういってアイザックの頭を撫でるドラの横顔に、窓から差し込む強い
西陽当たり、彼女の姿が力強く鮮やかに浮かび上がりました。

不思議とその時の光景を、今でもよく覚えています。
光は木々の緑を透かしてキラキラと輝き、小鳥たちのピチュピチュと
いうさえずりが聞こえ、すべてのものが美しく輝いて見えた、
何の変哲もないある日の午後。

「宗教とかは関係ないの。全てのもの・・・自分も、この息子も、
 太陽の光も緑も、小鳥も、地球だって、すべは同じ。ひとつ。
 みんな生まれてはサイクルして、死んで、また生まれ変わる。
 命だもの。」

そんな風に言って、ドラは窓の外へと視線を移しながら、眩しそうに
目を細めました。



「自分がいるから、世界がある」

ずっと身近にありながらも理解しきれていなかったこの言葉を、
時間も距離も経て、ニューメキシコでまた聞くことになるなんて。

不思議だなぁと思いながら、私は合わせていた手を下ろし、弘法さまの
祠と、自分と、そして私たち全てを取り巻く世界のことを想いました。

「理屈じゃないよ。心だよ。」
昔父から言われた言葉がまた、蘇ってきました。

今では、幼い私の甥っ子たちが、「じぃじ」と、父の後を追いかけては
草をむしり、虫を見つけて、そして弘法さまに手を合わせています。

目に見えるものや数字だけに惑わされずに物事の真理を感じとることの
できる感性が、この子たちの心にも育まれていくといいなぁと、私は
その小さな背中を見つめながら思いました。

More Posts