たったひとつの場所



とてもとても、久しぶりの投稿です。
昨年は一度もこのブログを書くことなく過ぎていき、あっという間に年は開け、なんともう2020年なのですね!

ボストンに引っ越して初めての年越しを迎えた頃、凍えるほどに寒く殺伐とした雰囲気の中、酷い音のする地下鉄に揺られながらふと電光掲示板を見ると、そこに「2010」というデジタルの表示が目に入ってきたのを思い出します。

異国の慣れない空気感をまだ身体中でひしひしと感じていた私にとって、2000年代で初めて二桁に突入した「2010」というその数字は、地下鉄の冷たい素材や色彩のトーン、そしてそのデジタル表示の無機質さも相まって、なんだかすごい未来に来てしまったかのような感じがして、妙な違和感を覚えたのです。

そこからさらに10年が経ったなんて・・・。
時の流れって、本当に掴めないものですね。

そして、フロリダに引っ越してきてからは、この春で3年になります。
あの10年前のことを思い出すと、今はまた全く別世界に暮らしているなぁと思います。

もう2月も終わりですが、相変わらずフロリダの冬は暖かく、ずっと春や秋くらいの気候が続いているような感じです。
たまにグンと寒くなる時もあるのですが、そういう時はその引き締まるような冷たい空気がシャキッとして気持ちよく、澄んだ空気のおかげでより一層キラキラと美しく輝く夜空の星々を眺めながら散歩をしたり、冬の空気感を楽しんだりしています。

けれど気がついたのですが、季節があまり変化しないと、時の経過というものを感じにくいのです。
日本などは特に四季がはっきりとしていて、更にはその時季ごとの伝統行事なども多くあるためか、「一年」という巡りが、意識的にも体感的にもとてもはっきりと感じられる国なのだと思います。


フロリダにいると、なんとなく毎日が、一年が、同じような感じで過ぎていきます。
温暖でのんびりしていて良いのですが、気をつけないとちょっとぼんやりし過ぎてしまうくらいです。
メリハリとか、感覚がスッと研ぎ澄まされるようなことがあまりないので、そういうところは自分自身でもっとうまく調整していかないとなぁ、と思っています。

ところでこの年末年始は、なんと3年ぶりに日本に帰国していました。
永住権を申請していたのですが、現大統領の影響なのか取得までにとても時間がかかってしまい、しばらくアメリカ国外へ出られなかったのです。

日本へ帰れないもどかしさや寂しさはずっとあったのですが、その間、私自身の体調不良によりしばらく治療と療養に専念していたり、飼い猫が病気になってしまったのでその看病をしながらも、初めて借りた一軒家は小さいながらも自分の城のようで、その中であれやこれやと楽しみながら色々なことをしていたら、あっという間に時間が経っていたという感じです。

そして、3年ぶりの日本。
その空気感。人々。空の色。光の加減。滑らかな電車の音・・・

空港から市街地までの電車に揺られる間、目に入るものすべてが美しく輝いていて、流れる空気はどこまでも優しく柔らかく、懐かしいと同時に驚くほど新鮮で・・・。
なんだか日本のすべてのものが「おかえり」と言ってくれているような気がして、あまりにも幸せで、涙が溢れてきてしまいました。

マスクをしてスマホに熱中している女子高生も、昼間から缶ビールを開けて無表情でツマミを頬張っているサラリーマンも、おなじみの鼻にかかったような車内のアナウンスも・・・そのすべてが愛おしかった。

そして、そんなことのひとつひとつに感動して涙を流している自分を可笑しく思いながらも、こんなふうに感じられるなんて、なんと素晴らしいことなんだろう、なんて有難いことなんだろうと思って、二次感動までしていたのです。


ここに、ひとつのパラドックスがあります。

私は日本に帰りたかったのに帰れず、寂しい思いをして辛い気持ちも味わっていました。
海外に住んでいる人の多くが感じることだと思うのですが、なぜ自分はこの国にいるのだろう、なぜ日本に住んでいないのだろうとやるせない気分になることも多々あります。

けれども、だからこそ、帰国した時にはそんなふうに小さなことにも感動できる。
それは、ずっと日本に暮らしていたら当たり前すぎて感じられないことです。以前の私がそうだったように。
それが、こんなふうに全身の細胞が震えるくらいに感動できるなんて。

日本にいられなくて寂しい、日本が恋しいと思って辛い思いもするけれども、だからこそ、そのコントラスト故に味わえる「日本」がある。
言葉では言い表せないし、大切にとっておく事も保存する事もできない「なまもの」であるその感覚は、ほんとうに、何ものにも代えがたいなと思います。

だってそれは、そういう経緯があってこその、その瞬間にしか味わえないものなのです。

そう思うと、「寂しい」「辛い」「苦しい」などの一般的にはネガティヴと思われる感情も、決して悪いものではなく、ただのスパイスなのだな、と思えるのです。
それはもしかしたら、自分の意思をはるか超えたところで投じられている、布石のようなものなのかもしれません。

そういった感情を味わっているということは、それがスパイスとなって活きてくる状況がその後に待っているかもしれないということ。

だから、時間軸に沿ったある一点だけを見て「良いこと」「悪いこと」と捉えるのはナンセンスで、それらを全部ひっくるめたそのものが人生の「ギフト」なのではないかな、と思います。



様々な場所に移動したり、異なる文化や気候、思想などに触れたりしているほどに、私たちは先ほども書いたようなコントラストをより多く経験します。

そんなふうにしていると・・・これは私のことですが、そういった経験から得た感覚、記憶、知識など、知らない間に自分の一部となっていて普段は眠っているものたちが、ふとした拍子に浮上し、何かが全身を駆け巡るような感覚になることがたまにあるのです。

それは大抵、予期せぬ時に体の芯から湧き出るかのように起こり、まるで脳内でニューロン細胞がシナプスを通してすごい速度で情報を伝達し合うかのように、これまでの感覚、記憶、知識、経験をピピピピッとつなぎ合わせて、何かに到達するような感じ。

言葉ではうまく説明できないのですが、それは難しい本を読んだり頭であれこれと考えるよりも、ずっとずっと純粋な知性のように感じられます。

またはそれは、日々の中で料理をしたり絵を描いたり、ガーデニングをして植物や虫たちと触れ合っているような時にも起こります。

そして、すべてのものは同じだ、と思うのです。
時間を超え、居場所を超え、人間や動物、自然や人工物、実物か空想かなどのラベリングも超えて。


例えば、カラカラに乾いた砂漠地帯でジリジリと太陽の日差しに焼かれる中、なぜか大切な誰かのことを想ったり、逆に誰かから感じる素朴な優しさに、土埃の舞う逞しい大地の匂いを感じたりもする。

ちょっと苦手だったトカゲや虫たちも、庭いじりの最中にふとその目を見てみると、そこに自分と同じもの感じたり、無機質で巨大な人工建造物を目の当たりにした時、ニューメキシコの有機的な岩山と同じくらい偉大だと思ったり。

エジプトのピラミッドを実際に足を運んでこの目で見ることと、それについての本を読んで想像を膨らませてワクワクすることのどちらもが同じくらいの価値があるな、と思うし、花の絵を描いていて、いつの間にか生命の秘密を知ってしまったような気になりドキドキしながら、ふと大好きな人と心が通じ合った瞬間を思い出す。

遠くへ旅すればするほどに、自分の内側へと深く深く潜っていくことになるし、逆に一つのことに全細胞を集中させることで、すべてのことが分かってしまったりもする。


全く異質に見えるものも、正反対に思えるものも、それらの本質をじっと感じてみると、すべての源は同じなのではないかと、私は思うようになりました。
ただ、表面的に違うように見える現れ方をしているにすぎないのだな、と。

だから、これまたパラドックスなのですが、コントラストを体験すればするほど、その違いの中にある共通点が見えてくるし、そういったことに気がつける感性も自然と磨かれていくのではないでしょうか。

手段は色々とあるけれども、どんな環境においても私たちは、いかなる世界にもアクセスできる・・・つまり、見る世界を選んでゆくことができます。

そして、どんな世界にアクセスしようとも、その根底には同じひとつの水脈が流れていて、実は私たちが本当にたどり着きたいのは、そのたったひとつの場所なのだろうと思うのです。


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