Photography

写真。
大袈裟かもしれないけれど、もし写真を撮っていなかったら
きっと私の人生は今とは違ったものになっていただろうなぁと
いつも思います。
フィルムの使い捨てカメラで日常を撮り始めた頃から数えると
私の写真歴は15年ほどになります。
写真に興味を持ち始めたその当時、世の中はガーリーフォトブームで、hiromixや蜷川実花さんといった新鋭の若手女性写真家が活躍し始めた頃でした。
映像の世界では、60年代のフランス映画、ヌーヴェル・ヴァーグが再び注目されて、その流れを受けた香港映画、ウォン・カーウァイ監督と映像カメラマンのクリストファー・ドイル氏による「恋する惑星」が公開された時期でもありました。
ストーリーよりも世界観、感性や雰囲気を映し出すそれらの作品はとてもスタイリッシュで、日常を非日常に見せてしまうその感性に、当時、大学でフランス語を専攻していた私はとても衝撃を受けました。

その影響か、旅の写真集なども多数出版されるようになり、未知の場所への憧れと、見知らぬ町に住む人々のリアルな表情を映し出したモノクロの写真などにも、私は強く惹き付けられたことを覚えています。
友達と過ごす毎日の学生生活と、外国への旅。
写真はその、日常と非日常の境目をなくし、自分の目線から見た世界を映し出してくれる魔法のような表現手段に思えたのでした。
それ以来、写真を撮ることは私のライフワークになりました。

写真が好きなくせに、カメラの機能や性能には本当に無頓着な私。
ですからあまりカメラへのこだわりというのはないのですが、今まで使っていた中で一番お気に入りのカメラはというと、Nikon FM10という銀塩フィルムの一眼レフでした。
高価なものではないし、すべてマニュアル作動で、突然のシャッターチャンスなどにはまったく向いていないのですが、使い慣れるとまるで自分の一部のように私の感覚にとてもよく馴染んでくれていて、それが映し出す色合いや質感をとても気に入っていました。
残念ながらそのカメラで撮ったものは、ほとんど全て日本に置いてきてしまったのですが、分厚いファイル数冊分になっているそれらの写真たちをペラペラとめくっていると、自分の姿こそ写っていないものの、まるで過去から自分の人生をたどっているかのように、その時の自分の視点や感情がありありと思い出されてくるのです。
若かりし頃の感性、今はもうこの世にはいない人。
私は確かにあの時この場所にいて、笑ったり、怒ったり、この光景を見ていたんだなぁと思うと、不思議な気持ちになります。

目の前にある対象を、ただの物質だと思って撮ると物質としてのそのものが映し出されるし、そこに何らかの感情や想いがある場合は、その気持ちが表れるものです。
自分の変化とともに撮りたいもの、映し出すものもずいぶんと変わってきました。
そして、目の前にあるものを何でも夢中に撮っていた昔とは違って、今はカメラを持ち歩かない日も多くなりました。
画角や色彩など視覚的に「これを撮りたい!」という能動的なモチベーションがあまりなくなっていて、今はどちらかと言うと、
「写す機会に恵まれたものを、感じるままに撮ってみよう」というような感じなのですが、これも今の自分の状態なのだなと受け止めています。
例えるならそれは、航海における凪のようなものかもしれないと、最近思います。
そういうときには、風に煽られスピードを伴っていたときよりも
実は視界が広く深く、それまでは見過ごしていたような景色までもが見えるのだそうです。
「何のために撮っているんだろう?」
という気持ちが沸き上がってきたことが何度かあります。

何のために?
その答えも、なんとなくわかってきました。
たぶん私は、写真を撮っていたおかげで
いつでも心を美しいもの、あたたかいもの、愛おしいものへと
向けることができていたのです。
楽しいときは楽しいままに
悲しみの中にあるときは、それと背中合わせにある光の部分を見い出すことを、写真を撮ることで忘れずにいられたのだと思います。
愛おしいものに「すきだよ」と言う代わりにレンズを向ける。
美しいものに対する敬意を込めてシャッターを切る。
きっと、そうしてシャッターを切るたびにエネルギーをもらっていたのです。
だから私は、写真にとっても感謝しています。
若い頃にそういうものに出会えて、幸せだったなと、改めて思う今日この頃です。